なぜ「漂流の窓風景」?

このブログのタイトルは日本語としてはおかしいかもしれません。ここで名づける理由を説明させていただきます。

「漂流」という意味は辞書によると「風や潮のままに海上をただよい流れること。」でも、窓の風景は漂流できませんよね。確かにそうですが、どうしても「漂流」を使いたい理由があります。

2000 年から2008年までの8年間は日本に過ごしていました。その時、独身の学生でした。学位を取れない限り、未来はどこでなにをするのか全く想像できません。それから、台湾と日本の間に行ったり来たりして、故郷より海外に過ごす時間が長いです。さらに、2005年から台湾・日本のほか、アメリカにも行ったり来たりし始めました。空間的には錯乱しています。

適応力は全く問題がないですが、前述のように、未来に対する不安や、空間へたいする混乱によって、「私の家はどこか?」という困惑は常に心の中にありました。これらの不安感は主人と結婚してからやっとややクリアされました。少なくとも、「家族いるところは私の家にある」というように考え直りました。

去年主人に「世界中どこに行ってもいいよ!私にとっては他の国に行くのはただ窓の風景が変わっただけ、どこで生活しても家は変わりません」と言いました。そうしたら、なんてまだ「漂流」しているの?それは、主人はまだ学生で、将来どこで就職するのかまだ分からないからです。私一家は主人の就職先によって行き先はまた変わります。ですから、私たちの行き先のない旅はまだ終ってません。風や潮のままに海上をただよい流れるように、漂流することはまだ続いています。

実は人が漂流しているはずです。ですが、心が定めているので、世界のどこへ行っても私は変わりません。私にとっては変わるのは窓の風景なんです。だから、漂流しているのは私ではなく、窓の風景なんです。